ぼくは10年近く前から「ポロック」の構想を練っていた。その間、ポロックについて読み、考え、感じることに時間を費やした。それに、画家であるとはどういうことなのかを実際に絵を描いて心理的に理解しようとした。骨の髄まで染み込んだものが素直な気持ちでポロックを演じることを可能にしてくれる、そういう思い込みが必要だったからだ。解釈の選択で悩むことはなかった。構想は極めて個人的に練ってきたし、資料を読んだり話を聞いたりする中で私が従わなければならないのは、どこが自分の心に触れるか、自分にとって理屈の上でも気持ちの上でも納得がいくのは何か、ということだった。
 ポロックを利用しようと思ったことは一度もない。それどころか“なぜお前はこの男の映画を作ろうとしてるんだ?”と自問した時期があったくらいだ。そっとしておいてやればいいじゃないか。だがそれは、自分自身をそっとしておきたいというぼくの願望にすぎないと気づいた。ややこしいんだが、ぼくはポロックを演じたいと思ったことはない。ぼくがなりたかったのはエド・ハリス。生前のポロックの経験によって心動かされ、インスパイアされ、素直で誠実な演技へ導いてもらえるよう、俳優として、個人として持てる力を総動員する、そういうエド・ハリスになりたいと思った。
 1990年代の初めにこの映画を作ろうと決めてから、ぼくは絵や素描を少しずつ描いてきた。大きなカンヴァスが使えるフロア・スペースを確保するために、ささやかなアトリエも作ってもらった。いつか彼のように描けるようになるかもしれないと考えるのは馬鹿げているが、映画の中では描いてみせなければならない。一番大変だったのは、彼のスタイルでぼくも描ける、という自信を得ることだった。それには自分は画家だということにコミットし、創作に気持ちを集中させなくてはならない。他人の再現ではだめなんだ。それが何よりのチャレンジだった。
 他人の支持を得たいと切実に願う者は、たいていどこかで見たことがある行動へと駆り立てられる。よそで支持を得ていることと同じようなことをしようとするんだ。ポロックの場合“認められたい”という思いはほとんど病的だったが、それ以上に切実だったのが創作への思いで、そこには一点の偽りもなかった。それが、今まで描かれたことのない芸術へと彼を駆り立て、当然のことながら嘲笑と非難を浴びることになった。けれど、ポロックにとって一番厳しい批評家は彼自身だった。自分の作品に関する限り、何が純粋で何が真実で何がリアルかをちゃんとわかっているのは自分だけだと彼は確信していた。彼は自分自身と芸術を隔てることはしなかった。認められたいと切実に願いながら、認めてもらうために差し出したのは真実だけだった。ぼくは彼のそんな部分に心惹かれた。
 結婚した当初、リー・クラズナーの最大の関心事はジャクソンを喜ばせることだったの。彼女は自分一人でもとても立派な人なのに、自己発見することを他人に頼ってしまうタイプなのね。ポロックとクラズナーの結婚生活は“ワンダフル、ファビュラス、でもぞっとする”といった感じのもの。二人は必ずしも健全とは言えない形で互いを養っていたの。でももし二人が一緒になっていなければポロックの名が世界的に売れることはなかっただろうし、リーもあんな風に限界まで芸術を突き詰めることはなかったでしょう。離れ離れになった途端、一人は自爆するしかなかったんですもの。
 リーがどこから来たのかを探るために、絵のレッスンを受けたの。彼女がカンヴァスに絵の具を置くやり方を知れば、もっと彼女のことがわかるかもしれないと思って。資料も読めるだけ読んだわ。美術館も観て回った。彼女の友人たちや家族にも会った。そして最後に、ポロックのことを勉強したの。
 エドや出演者、クルーのみんなが、それぞれの持ち場でプロセスに心を砕いていたわ。エドは驚くべき監督よ。常に自分と他の人たちを鞭打って、もっと頑張るように仕向けていた。それに彼は自分の宿題もしっかりこなす。それがあまりにもちゃんとしているので、自分が恥ずかしくなってしまったわ。彼の集めた情報量があまりに膨大だったので、映画の製作過程で“これってポロックの絵みたい”って思ったほど。そういう色んな要素が互いに重なり合っているの。
 撮影は主にニューヨーク市と、ロングアイランドのイースト・ハンプトンにあるポロックとクラズナーの地所で行われた。撮影監督のリサ・リンズラーは、ポロックが生きた時代を映像化するために多くの資料を活用し、エドと緊密に仕事を進めていった。「撮影の背後にある原動力は、人間として、さらに画家としてのポロックの強烈さを何とかして表現し、命を吹き込まなくてはならないということだった。私が彼に抱いた印象は、とてつもないエネルギーの塊で、それなのに世間や自分自身にうまくなじめない人というもの。エドが見事に宿していたそんなポロックの個性が、撮影スタイルを導く牽引力になった。照明や画面設計の出発点になったのは、ポロックの精神状態だった」。
☆〈2人だけのアトリエ〉NYグリニッヂビレッジ、そして〈スロー・ライフ〉をあの時代に先駆け暮らしたロング・アイランド、ニューヨーカーの憧れの避暑地イースト・ハンプトンに〈そこ〉は今も実在している。
 プロダクション・デザイナーのマーク・フリードバーグはポロックとクラズナーが住んだ家と、創作を行った納屋などを当時のままに復元した。また彼は、グリニッチ・ヴィレッジのアパート街や画廊などの化粧直しや復元にも腕をふるった。「ロングアイランドの自宅はポロックが亡くなった当時の姿をほぼとどめていたが、補修箇所もいくつかあった。グリニッチ・ヴィレッジのアパートに関しては広範なリサーチを行ったが、判断材料になる写真が3枚しか見つからなかったので、当時の様式をガイドラインにした」。
 映画に登場するポロックや他の有名画家のおびただしい数の絵も制作された。「この映画で最もインスピレーションを与えてくれるのは芸術の創作、つまり絵だ。エドは芸術をたっぷり描写しようと決めていた。自分で描くところまで見せようというんだからね。あの役になりきっていた。彼がポロックになっていくのを見るとわくわくしたし、インスピレーションも与えてもらった」。
 衣装デザイナーのデイヴィッド・ロビンソンはポロックとクラズナーが当時の人々の中でも際立った存在だったことに驚かされた。「二人は完全に時代の先を行っていた。画廊のオープニングを写した写真を見たが、40年代スタイルの服装をした人たちの間に、完全にモダンな格好のジャクソンとリーがいる。ジャクソンは、Tシャツ&ジーンズを着た最初の一人だった。彼はいつも西部人のイメージを崩すまいとしていた。リーは決して帽子や宝石やストッキングを身に着けなかった。彼女のセクシーな衣装はプリ・フェミニストとしての、そして人妻としての彼女の役割の反映でもあった」。
 ロビンソンが手がけた衣装は、ポロックの重ね着のセーター、絵の具が点々と付いているジーンズといったカジュアルな作業着から、エルザ・シャペレッリがデザインしたペギー・グッゲンハイムの“ロブスター”ドレスのような、ポロックを取り巻くアート界の人々のエキセントリックなスタイルにまで及んだ。

  ☆ポロックの絵画に出遭える場所☆
  ●ニューヨーク
   MoMA、グゲンハイム、メトロポリタン美術館等
  ●東京
   原美術館、富士ゼロックスギャラリー等

  ☆ポロックの感動に出遭える携帯サイト☆
  待受画像サイト「MoMA/ニューヨークArt」




 ベニー・グッドマン、ビリー・ホリディ、ジャズという音楽とポロックというモダン・アート。その2つは40−50年代にアメリカが初めて世界に誇れる芸術として奇しくも同時代に誕生した。ホリディもポロックも破滅的な天才だった。また「ナイト・オン・ザ・プラネット」「バスキア」などにも曲を提供している〈酔いどれ詩人〉トム・ウェイツが書き下ろしのテーマ曲〈THE TIME IS TURNING〉を捧げ、感動のラストをあの独特のハスキーボイスで謳い上げる。