ニューヨークの画廊でアメリカのモダン・アート界のスター、ジャクソン・ポロックの個展が開かれていた。若い女性が彼を特集した『ライフ』誌を抱えてやってくる。自分の記事のページにサインをしながら、ポロックの表情はどこか虚ろだった。
 9年前の1941年11月、グリニッチ・ヴィレッジ。29歳のポロック(エド・ハリス)は四兄サンフォード(サンド)夫婦の家に居候していた。その日、兄とアパートの階段を上りながら、ポロックは「くたばれ、ピカソ!」と大声でどなった。長兄チャールズの後を追って“アメリカン・シーン派”トーマス・ハート・ベントンのもとで美術の勉強をしてきたポロックは、数年前からシケイロス、リベラ、オロスコといったメキシコの画家、ネイティブ・アメリカンの美術、ヨーロッパのキュビズムの画家たちにイメージを刺激されていた。中でもピカソはポロックにとって“何もかもやっちまったクソ男”。崇敬の念とともに、彼は自分の才能と価値に不安を抱いていた。10代のころからアルコール依存症に陥り、不安定な精神を抱えてユング派の精神科医のもとに通っていたポロックは、おかげで徴兵を免れたものの、サンドの妻にとっては厄介者でしかなかった。
 ポロックは美術評論家ジョン・グレアムが著書『原始美術とピカソ』で書いたユングの“無意識”論に基づく抽象表現主義理論に感激し、彼と親交を結んでいた。グレアムはマクミレン画廊で名もないアメリカの画家たちとピカソ、ブラックらフランス画壇の大家たちの作品を一緒に並べる〈フランスとアメリカ絵画展〉を企画していた。そんなある日、彼のもとにリー・クラズナー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)が突然訪れる。彼女は自分の作品と共にこの展覧会に出品されるポロックの絵を見てその才能を見抜き、本人に会いに来たのだった。部屋に散乱する絵を見て「凄い!」と驚愕するリー。彼女はポロックに自分のアトリエに来るように言って帰っていく。
 3週間後、ポロックはリーのアトリエを訪ねた。二人はカフェへ行き、リーは5年前にパーティで泥酔したポロックに会ったことを話した。二人の心には何か通じ合うものがあった。夜になって二人はリーの部屋に戻った。彼女は無言で服を脱ぎ始めた。
 リーはポロックと家族ぐるみの付き合いを始めた。しかし、ポロックの精神は不安定で、飲酒癖は治らなかった。美術界の状況に明るく、画家や批評家と親交のあるリーは、ポロックをデ・クーニング(ヴァル・キルマー)ら前衛的なグループに紹介した。そして、ペギー・グッゲンハイム(エイミー・マディガン)との出会いが、彼の進路を大きく飛躍させる。秘書兼助手のハワード・ピュッツェルとともに彼の作品を見に来たペギーは、「天才だ!」と断ずるピュッツェルの意見を入れて自分が開設した前衛美術の画廊〈今世紀の美術〉への出品と新居の壁画制作を依頼した。ペギーはポロックの契約画商となって月150ドルの手当てを支給することになり、おかげで彼は制作に専念することができた。新進の美術評論家クレメント(クレム)・グリーンバーグが積極的に彼の絵を賞賛した。
 絵の具のチューブで直接カンヴァスに厚塗りするポロックのスタイルは独創的だった。勇敢にして大胆。野性的で荒々しく、原始的な素朴さを湛え、力強さは暴力的ですらあった。その“荒ぶる美”は洗練されたヨーロッパのキュビズムにはない独自のものだった。リーはポロックに尋ねる。「シュールレアリズム? 夢? 何を描いているの?」。彼は答える。「俺が自然だ!」と。彼はすでにこのとき、芸術の創造の源である“無意識”につながる通路を見出していた。43年11月、〈今世紀の美術〉画廊で初めての個展が開かれた。ポロックは画壇の寵児になった。
 グッゲンハイム邸の壁画制作はいっこうに進まなかった。ポロックは何週間も白いカンヴァスをみつめたままだった。しかし、ある日突然、彼は黒いペンキで線を引き始める。これに青緑、黄、白、赤、ピンクと順に色が加わり、豊かな色彩の抽象画へと変わっていく。翌朝、リーが目を覚ますと作品が完成していた。それは凄まじいばかりの集中力だった。ペギーもこれを気に入ってくれた。しかし、酒ゆえの傍若無人はいっこうに治まる気配がなかった。しだいに病状は悪化し、浮浪者のように路地にうずくまった。しばらくしてボロボロになって家に帰ってきたポロックを、リーは何も言わずに受け入れた。彼女は彼と一緒に暮らし、彼に絵を描いてほしいと思った。そして、結婚するか別れるか決断するように迫る。
 45年の秋、ポロックとリーは正式に結婚し、ニューヨークの喧騒を避けるようにロングアイランド、イースト・ハンプトンに近いスプリングスの農家に引っ越した。ボロ家だけれど自然に囲まれた静かな環境で、二人はキツネの美しさに見とれた。ポロックは草原に寝ころがってカラスと戯れ、犬と一緒に自転車で道を走った。納屋をアトリエに改造し、創作の合間に畑を耕した。穏やかで幸せな日々が続いたある日、ポロックはリーに子供を作ろうと言う。しかし、彼女はポロックだけで手一杯。子供を作るために結婚したのではないし、生活は逼迫していた。彼女はポロックの天才を信じ、ここで二人きりの生活を送りたかった。時々ペギーや友人たちが訪れることもあったが、リーは何よりポロックが再び酒に溺れることを恐れていた。そして、ポロックはしだいに創作に行き詰まっていく。
 47年1月。床に置いたカンヴァスに偶然落とした絵の具が、ポロックにひらめきを与えた。絵筆についた液状の絵の具を飛び散らせたり、滴らせたりする新しい手法。ついに彼はスランプを脱し、突破口を開いた。これがポーリング(注ぎ手法)、ドリッピング(滴り手法)と呼ばれる彼の典型的なスタイルとなった。画廊から手を引いてベネチアに去ったペギーに代わり、ベティ・パーソンズが契約画商になった。49年8月には『タイム』誌に大々的に特集記事が載った。11月に開かれた個展は大成功し、ようやく作品が売れるようになった。ポロックはラジオのインタビューに応えて、絵筆をカンヴァスに触れることなく棒として使う手法を説明した。しかし、決して“偶然”を利用したりはしないと。今やポロックはスターになり、ドキュメンタリー映画も撮影された。しかし、しだいにスランプに陥った彼は2年間の節制を破って深酒し、アルコール依存症に戻ってしまう。彼の作風はその心象を表すように暗いイメージ画へと転じていった。翌月開かれたパーソンズ・ギャラリーの個展ではほとんど買い手がつくこともなかった。映画の冒頭のサインのシーンは、このときの1コマだった。
 5年後。ポロックはもはや筆を手にとることも稀になっていた。リーは酒に溺れるポロックを罵った。彼が若いファッション・モデル、ルース・クリグマン(ジェニファー・コネリー)と恋愛関係を結んだせいで、リーとはより険悪になっていった。ポロックはリーに“借り”があることを自覚していた。彼女がいなければとっくに死んでいたろう。アートへの、そしてお互いへの愛のあまりの真摯さ故に傷つけあう2人。やがてリーはベネチアへと旅立って行った。
 56年8月11日。しこたま酒を飲んだポロックは車にルースと彼女の友人エディットを乗せ、イースト・ハンプトンの道を狂ったように飛ばしていた。そして……。